退職願

2014/11/04 01:58:02

会社を興す前に私はある会社に18年間勤めていました。
その会社は創業者が一代で興して、東証1部上場まで果たしていました。
退職時のポジションはマーケティング部の部長でした。

特に待遇に不満があった訳ではありませんでした。特に失脚するような失敗があった訳でもありませんでした。これからも真面目に仕事に取り組めば執行役員、そして取締役になるかもしれないとイメージできていました。(さすがに社長になれるというイメージは最後まで持てませんでしたが。笑)

 

会社は安定した業界で安定したポジションを築いていました。

その会社を私は退職しました。

今日は退職願が受理された日の忘れられない「言葉」に関して書かせていただきます。

私の辞意は会社に動揺を与えました。
私の上司であるマーケティング部の担当取締役、そして社長からも直々に慰留をいただきました。

その一方で、社内に流れる噂も耳にしました。「森本さんはO社に高額報酬でヘッドハンティングされたみたいだよ。条件として森本さんが開発に携わった製品をO社でやることになったみたいだよ」と。

 

それはまったく根も葉もない噂でした。
ですがその噂は否定しても社内で一人歩きを続けました。

18年間お世話になっていたその会社が、私のスキルのほとんどすべてを作ってくれました。
その会社での経験が(嫌な経験も含めて)私の底力となりました。
その会社の失敗経験も、その会社での成功体験も、そのすべてが、私の最大の武器でした。

私は過去に辞めて行った先輩や、同僚や後輩が、後ろ足で砂を掛けるように出て行ったり、競合会社に情報を抱えて転職することを、ずっと悲しく思っていました。

また同じくらい、競合会社から人材を大量にヘッドハンティングし、前職の内部情報を抱えさせて(それを条件にしたか否かは知りませんが、少なくともそれを容認し)入社させ、ビジネスの成功をショートカットしようとするその会社の考え方がずっと許せませんでした。行く方も行く方で、そんな転職の仕方をしてそれからの人生をプライドをもって生きていけるのだろうか?私は本気でそう思っていました。

 

だからそんな競合会社に私が行く訳はありません。

またいかなることがあってもお世話になった会社に、後ろ足で砂を掛けるようなことはしたくはありませんでした。それらは自分自身の美学に反していました。

 

私の辞職の事案はいよいよ最終段階に入り、その決着は創業者である取締役会長へと持ち越されました。

その日、会長室に私はいました。
会長は私の目の前に座っていました。
静かな目をしていました。

私が会長の前でまず述べたのは感謝の言葉でした。
これまで鍛えていただいたこと、経験させていただいたこと、学ばせていただいたこと、
そのすべてに感謝の気持ちを述べました。

会長は黙って私の話を聞いていました。

そして私が未来永劫、競合会社に行くことはないこと、それはたとえのたれ死んでも。
そして、その結果として選んだ道が、自分で会社を興すこと、それは決して競合する製品を扱う会社ではなく、この会社で学ばせていただいたマーケティングを生かした仕事であること、願わくばこの会社で培ってきた経験を生かして、小さな会社の成長を支援したいことを述べました。

最後にもう一度、「私は自分で会社を興します。競合会社には行きません。」そう繰り返しました。

会長は黙ってじっと私の目を覗き込むように見ていました。
いつもの迫力のあるあの目でした。
修羅場をくぐり真っ向勝負で会社をここまで大きくしてきた方の眼光でした。
年齢を重ねても衰えるばかりか、その眼光はますます鋭さをましていました。
20代の頃は何度もその目で睨まれ叱り飛ばされました。

 

ですが、それはちがっていました。
見間違えていたのです。その目は笑ってました。

 

18年間、一度も見たことがない目でした。
会長が相好を崩してはじめて、その目が笑っていたことに気づきました。
そして会長はしっかりとした、いつもの大きな声で私に言いました。

 

「やってみなさい。おもしろいぞ。いいか。うまくなんかいかないんだよ。うまくいかないからおもしろいんだ。おもしろくて、おもしろくてたまらないぞ。金がなくなったら銀行から借りろ、そんな金はすぐに消えてなくなる。そんなにかんたんには行かない。でもそれがまたおもしろい。そしてな・・・・君ならぜったいに、いつかうまくいく。だからやってみなさい」

 

思っていたように商品が売れない時、思っていたようにお客さまが集まらなかった時、思ったように契約が取れなかった時、経営者は誰もが全人格を否定されたような気持になるそうです。

特に独立して間もない時、ひとりでビジネスを立ち上げた時には、心からの孤独を感じるそうです。世界中からたったひとり取り残されたような孤独感、そしてこの社会に自分は何の存在意義もないのではないかという絶望感。

会社を興してから、私自身も何度もふとそんな気持ちを感じる瞬間がありました。

そんな時に一瞬でその感覚を払拭してくれたのがこの言葉でした。
一代で会社を興し東証1部上場させた方が、私にはそれまで一度も見せてくれたことのない笑顔で、心を込めて話してくれた私にとって本当に大切な言葉です。

「やってみなさい。おもしろいぞ。うまくなんかいかない。だからおもしろいんだ。そして君ならぜったいにいつかうまくいく。だから、やってみなさい」

私はまだ自分の言葉としてこの言葉を誰かに伝えるだけの資格がありません。
でもこの言葉を贈ってあげたい大切な人はいます。

いつの日かこの言葉があなたの小さな支えとなりますように。